2010年6月30日水曜日

どうしようもない気持ち

自分どうしようもないなぁ、と最近思う。
いろいろと鬱憤はあるけど、ぶつける先がわからない、と言うか、ぶつけるべき相手はわかるような気はするが、どうやってぶつけるかがわからない。

ただのわがままだと言われてしまえば、それはそれで立つ瀬が無いのだけれども。いい歳をして、こんな悩みを持つこと自体が、どうかしているのかもしれない。僕はこの上ない、あまのじゃくかもしれない。

身近な例をとってみるならば、就活、というものについて。
大学生たちは雇用不足に悩み、より多くの会社の試験を受けて、どこかしらに就職しようとする。ただ、その過程で行われることが、僕にはとても気にくわない。どうすれば会社は自分に魅力を感じてくれるか、コミュニケーション力をつけるにはどうすれば良いか、自分を見つめなおす?ためのセミナー、それにあのSPIなる奇怪なもの。そのどれもが、目に見えない何かに、自分の魂を売っているようにしか僕には思えない。そんな風に、誰かが求める自分をつくり上げて、一体なんになる?自分は自分だ。この世で並ぶもののない、比類のない自分だ。
「私は、御社に就職いたしましたら、これこれの能力でもって、必ず貢献できると考えます」
笑わせるな!そんなのは嘘だ!

自分は自分のためにあるのだ。もちろん、会社に入って働くことが、その自分への道だとする考え方もあるだろう。だが果たしてそうか?誰かに認められることで確立する自分など、これほど安っぽいものはあるまい。自分については、自分で認めるより他に道はないのだ。僕は誰かに認められたり、褒められたりするために、働きたいとは思わない。だが会社に於いては、会社に尽くすことが最上の美徳だ。そのことを、わかっているふうにやらなければ、会社ではやっていけないのだ。そこでは、自分以上に会社が優先されることになる。そんなのは嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!
僕はこれまで生きてきて、自分を心から認めたことはない。誰かに認められたときでさえ、どこか心が空虚だったりした。私は自分で、この自分を、両手を広げて褒めてあげられることを望む。そんな瞬間が来ることを望んでいる。だから、富を築けなくともいいし、幸福な家族が持てなくともいい。そして誰にも媚びることなく一生を生きて行きたい。そのために、何事にも縛られたくない。たいそうな肩書きもいらない。生涯、一人の個人でいい。自尊心と、自己中心は違う。天と地ほどに違う。この天地に、守るものなく、縛られるものもない、ただの自由な身体。それを私がどんなに焦がれているか。

社会に流されたくない、とは誰もが思う。だが社会で生きていくには、社会に流されなければならない。
ならば他の流れを掘り当てるまでだ。

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