2010年6月10日木曜日

研究室宿泊研究日誌6/10「神話について-試論-」

ふっと、ひらめいたんですが、
自分の中にある、どうしてもそれから逃れられないもの、乗り越えられないものを、「神」というのではないでしょうか。
やや堅い言い方をすれば、自分の中の超越的な何か、といったところでしょうか。

神、といえば、イエス・キリストを想起する人が多いのではないかと思います。キリスト教、いわゆる一神教における神というものは、人間が考え出した概念ではないかと思うのです。つまり、自分の中にある超越的な何かを感じてしまったとき、意識してしまったとき、神が生まれたのではないでしょうか。それは同時に、人間が自らに限界を定めたということでもあると思います。ここで言う限界とは、思考の限界です。考えるべき問題(社会でどう生きるか、どうすれば食いっぱぐれないか等)と、考える必要のない問題(今で言う哲学が扱うような問題)を区別したのです。そして後者の、考える必要のない問題は、「信仰」ということで一括りにしてしまったというわけです。その結果、人間は国家をつくり、様々な制度をつくり、科学を発展させ、戦争もしました。いくらか言い方を変えて繰り返しますが、一神教の成立=神の発見とは、人間が自ら(の思考)を抑圧する営みであったと言えましょう。そしてもし、このような成立過程を是とするならば、一神教においては厳格な信仰が求められることは必然的であり、それは極めて、権力と結びつきやすい性質を持つと言えます。

では、神話が語られていた時代、つまり一神教の成立よりも前の時代は、そのあたりどうだったのでしょう。神話には当然たくさんの神が出てきます。ですがこの神は、一神教の「神」とはその性質を全く異にするものでした。人間の思考を抑圧するのではなく、むしろ人間の思考の道具とも言うべき存在でした。風はなぜ吹くのか、川はなぜ氾濫するのか、収穫が少ないのはどういう訳か、そのような世界の諸問題を記述し、認識し、解釈するために、神という道具が用いられたのでした。その記述たるや極めて合理的なもので、自然科学の目が無い時代に、世界の摂理を理解しようとしていたことがうかがえます。何を以って合理的とするか、という問題ですが、神話のストーリーは因果律に満ちています。原因があって、結果がある。その結果が次の出来事の原因となる、というように。これはやや衒学的に言えば、「因果律の萌芽」とも、「パルメニデス以前の合理主義」とも言えましょう。ですから、神話を荒唐無稽だなどと笑うことは決してできないのです。神話が解決しようとした諸問題を「信仰」で括ってしまった一神教の方が、よっぽど荒唐無稽だと思います。神話というと宗教染みて聞こえますが、その実、神話はむしろ哲学に近い営みでしょう。中沢新一氏は、神話を「人類最古の哲学」というふうに言っています。


*この試論は、一瞬のうちに頭によぎった様々な考えを、どうにかこうにか整理したものであり、決して学術上の裏づけがあるわけではありません。間違いもあるでしょう。ご了承ください。*

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