自分どうしようもないなぁ、と最近思う。
いろいろと鬱憤はあるけど、ぶつける先がわからない、と言うか、ぶつけるべき相手はわかるような気はするが、どうやってぶつけるかがわからない。
ただのわがままだと言われてしまえば、それはそれで立つ瀬が無いのだけれども。いい歳をして、こんな悩みを持つこと自体が、どうかしているのかもしれない。僕はこの上ない、あまのじゃくかもしれない。
身近な例をとってみるならば、就活、というものについて。
大学生たちは雇用不足に悩み、より多くの会社の試験を受けて、どこかしらに就職しようとする。ただ、その過程で行われることが、僕にはとても気にくわない。どうすれば会社は自分に魅力を感じてくれるか、コミュニケーション力をつけるにはどうすれば良いか、自分を見つめなおす?ためのセミナー、それにあのSPIなる奇怪なもの。そのどれもが、目に見えない何かに、自分の魂を売っているようにしか僕には思えない。そんな風に、誰かが求める自分をつくり上げて、一体なんになる?自分は自分だ。この世で並ぶもののない、比類のない自分だ。
「私は、御社に就職いたしましたら、これこれの能力でもって、必ず貢献できると考えます」
笑わせるな!そんなのは嘘だ!
自分は自分のためにあるのだ。もちろん、会社に入って働くことが、その自分への道だとする考え方もあるだろう。だが果たしてそうか?誰かに認められることで確立する自分など、これほど安っぽいものはあるまい。自分については、自分で認めるより他に道はないのだ。僕は誰かに認められたり、褒められたりするために、働きたいとは思わない。だが会社に於いては、会社に尽くすことが最上の美徳だ。そのことを、わかっているふうにやらなければ、会社ではやっていけないのだ。そこでは、自分以上に会社が優先されることになる。そんなのは嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!
僕はこれまで生きてきて、自分を心から認めたことはない。誰かに認められたときでさえ、どこか心が空虚だったりした。私は自分で、この自分を、両手を広げて褒めてあげられることを望む。そんな瞬間が来ることを望んでいる。だから、富を築けなくともいいし、幸福な家族が持てなくともいい。そして誰にも媚びることなく一生を生きて行きたい。そのために、何事にも縛られたくない。たいそうな肩書きもいらない。生涯、一人の個人でいい。自尊心と、自己中心は違う。天と地ほどに違う。この天地に、守るものなく、縛られるものもない、ただの自由な身体。それを私がどんなに焦がれているか。
社会に流されたくない、とは誰もが思う。だが社会で生きていくには、社会に流されなければならない。
ならば他の流れを掘り当てるまでだ。
2010年6月30日水曜日
2010年6月17日木曜日
幕末の話
幕末の話をします。
幕末にはずいぶんと過激な人々が大勢いました。薩摩しかり長州しかり。水戸もまたしかり。そうそう、新選組も。動乱の時代にはヒーローと呼べる人がたくさん出てきておもしろいけれども、やっぱり現在もドラマや小説でヒーロー扱いされるのは、坂本竜馬、西郷隆盛、高杉晋作、近藤勇、などなど。いわゆる志士と呼ばれる人は数え切れないほどいたんだろうけど、やっぱり竜馬と晋作だけは格が違うと思います。この二人はもう何と言おうか、でかすぎる。奇跡です。僕からは距離が遠すぎて、何にも言えない気がします。でも偉そうに、ちょっとだけ語ってみます。
二人の共通点。それは、権勢への欲というものがまったくと言っていいほど無かったことです。竜馬が新政府の人事案を西郷に見せたとき、竜馬の名が入ってなかったことを不審に思った西郷が、その旨を尋ねると「世界の海援隊でもやりますかな」と竜馬が答えたというエピソードはあまりにも有名です。これは『竜馬がゆく』の中で司馬遼太郎さんも触れておられることですが、どうも竜馬は船と海が好きでしようがなかった。その自分の大好きなことができるような世の中を作りたいがために、薩長連合や大政奉還といった大仕事をやってしまった感がある、ということです。この点、竜馬はどこまでも純真無垢、天衣無縫な青年だったでしょう。
一方の晋作はどうでしょう。晋作は長州の上士階級の出身だったこともあり、藩内ではたびたび重要な役職についています。一時は政務役という、首相のような位置にあったこともありました。ですが晋作は、せっかく高官に就いたのに、どれも短期間でやめてしまいます。詳しいことは割愛しますが、時勢の成り行き上やめなければならなかったこともありますし、自分から役職を蹴ってしまったこともあります。奇兵隊創設の場合もそうで、作るだけ作ってしまって、具体的な管理運営はあっさりと山県狂介に一任してしまうのです。このようなときに晋作が抱く感慨というものは、一種の厭世観とでも言えましょうか。多少ナルシスティックな面もありますが、それは『方丈記』から続く、日本の知識人の代表的な姿勢でもあります。ただ晋作の一筋縄ではいかない面白さは、彼が「自分は誰よりも長州藩と毛利の殿様に忠誠の篤い臣だ」と自認していたことです。この点については、また機会を別にして論じてみたいと思います。
晋作は多くの漢詩を残しており、詩人としても優れていたことをうかがわせますが、その詩の内容は、例えば世を捨てた自分を笑い、どこか楽しんでいるような、多少キザっぽいものも多いように思います。この点、同じ「勤皇の志士」といえども、藤田東湖や武市瑞山、それに彼の師であった吉田松陰とはずいぶんと異なった人物でした。要は、イデオロギッシュでないという意味で、幕末的な性格が薄いのだと思います。
以上、まことに大雑把にではありますが、竜馬と晋作について比較を試みました。まとめたいと思います。幕末という一時期を真ん中に置くとすると、竜馬はそこよりも進んだ位置、つまり現代的(近代をも飛び越えているという意味において)であり、晋作はそこよりも戻った位置、つまり、より中世的・封建的であったと言う事ができるでしょう。しかし二人の仕事だけを見るならば、それは倒幕ということに尽きるのであり、さらに言うならば、日本の近代国家への発展を決定づけたのでした。
幕末の動乱は、ひとつの思想闘争だと言えるでしょう。誰もが尊王攘夷の思想に染まり、旧体制と対決していった中で、その混乱を収束に導いた二人が、極めて思想の匂いの薄い人物であったということは、とても興味深いことだと思います。
ここまで話して思い出しました。実は僕は、幕末期に開明的な眼を持っていた、一部の幕臣たちの話をしたかったのでした。尊王でも佐幕でもない、もうひとつの立場にあった彼らを非常に尊敬してもいます。ですが思いもよらぬ方向に話がそれてしまいました。その話はまた次回にでもしたいと思います。
では、終わります。
幕末にはずいぶんと過激な人々が大勢いました。薩摩しかり長州しかり。水戸もまたしかり。そうそう、新選組も。動乱の時代にはヒーローと呼べる人がたくさん出てきておもしろいけれども、やっぱり現在もドラマや小説でヒーロー扱いされるのは、坂本竜馬、西郷隆盛、高杉晋作、近藤勇、などなど。いわゆる志士と呼ばれる人は数え切れないほどいたんだろうけど、やっぱり竜馬と晋作だけは格が違うと思います。この二人はもう何と言おうか、でかすぎる。奇跡です。僕からは距離が遠すぎて、何にも言えない気がします。でも偉そうに、ちょっとだけ語ってみます。
二人の共通点。それは、権勢への欲というものがまったくと言っていいほど無かったことです。竜馬が新政府の人事案を西郷に見せたとき、竜馬の名が入ってなかったことを不審に思った西郷が、その旨を尋ねると「世界の海援隊でもやりますかな」と竜馬が答えたというエピソードはあまりにも有名です。これは『竜馬がゆく』の中で司馬遼太郎さんも触れておられることですが、どうも竜馬は船と海が好きでしようがなかった。その自分の大好きなことができるような世の中を作りたいがために、薩長連合や大政奉還といった大仕事をやってしまった感がある、ということです。この点、竜馬はどこまでも純真無垢、天衣無縫な青年だったでしょう。
一方の晋作はどうでしょう。晋作は長州の上士階級の出身だったこともあり、藩内ではたびたび重要な役職についています。一時は政務役という、首相のような位置にあったこともありました。ですが晋作は、せっかく高官に就いたのに、どれも短期間でやめてしまいます。詳しいことは割愛しますが、時勢の成り行き上やめなければならなかったこともありますし、自分から役職を蹴ってしまったこともあります。奇兵隊創設の場合もそうで、作るだけ作ってしまって、具体的な管理運営はあっさりと山県狂介に一任してしまうのです。このようなときに晋作が抱く感慨というものは、一種の厭世観とでも言えましょうか。多少ナルシスティックな面もありますが、それは『方丈記』から続く、日本の知識人の代表的な姿勢でもあります。ただ晋作の一筋縄ではいかない面白さは、彼が「自分は誰よりも長州藩と毛利の殿様に忠誠の篤い臣だ」と自認していたことです。この点については、また機会を別にして論じてみたいと思います。
晋作は多くの漢詩を残しており、詩人としても優れていたことをうかがわせますが、その詩の内容は、例えば世を捨てた自分を笑い、どこか楽しんでいるような、多少キザっぽいものも多いように思います。この点、同じ「勤皇の志士」といえども、藤田東湖や武市瑞山、それに彼の師であった吉田松陰とはずいぶんと異なった人物でした。要は、イデオロギッシュでないという意味で、幕末的な性格が薄いのだと思います。
以上、まことに大雑把にではありますが、竜馬と晋作について比較を試みました。まとめたいと思います。幕末という一時期を真ん中に置くとすると、竜馬はそこよりも進んだ位置、つまり現代的(近代をも飛び越えているという意味において)であり、晋作はそこよりも戻った位置、つまり、より中世的・封建的であったと言う事ができるでしょう。しかし二人の仕事だけを見るならば、それは倒幕ということに尽きるのであり、さらに言うならば、日本の近代国家への発展を決定づけたのでした。
幕末の動乱は、ひとつの思想闘争だと言えるでしょう。誰もが尊王攘夷の思想に染まり、旧体制と対決していった中で、その混乱を収束に導いた二人が、極めて思想の匂いの薄い人物であったということは、とても興味深いことだと思います。
ここまで話して思い出しました。実は僕は、幕末期に開明的な眼を持っていた、一部の幕臣たちの話をしたかったのでした。尊王でも佐幕でもない、もうひとつの立場にあった彼らを非常に尊敬してもいます。ですが思いもよらぬ方向に話がそれてしまいました。その話はまた次回にでもしたいと思います。
では、終わります。
2010年6月15日火曜日
2010年6月10日木曜日
研究室宿泊研究日誌6/10「神話について-試論-」
ふっと、ひらめいたんですが、
自分の中にある、どうしてもそれから逃れられないもの、乗り越えられないものを、「神」というのではないでしょうか。
やや堅い言い方をすれば、自分の中の超越的な何か、といったところでしょうか。
神、といえば、イエス・キリストを想起する人が多いのではないかと思います。キリスト教、いわゆる一神教における神というものは、人間が考え出した概念ではないかと思うのです。つまり、自分の中にある超越的な何かを感じてしまったとき、意識してしまったとき、神が生まれたのではないでしょうか。それは同時に、人間が自らに限界を定めたということでもあると思います。ここで言う限界とは、思考の限界です。考えるべき問題(社会でどう生きるか、どうすれば食いっぱぐれないか等)と、考える必要のない問題(今で言う哲学が扱うような問題)を区別したのです。そして後者の、考える必要のない問題は、「信仰」ということで一括りにしてしまったというわけです。その結果、人間は国家をつくり、様々な制度をつくり、科学を発展させ、戦争もしました。いくらか言い方を変えて繰り返しますが、一神教の成立=神の発見とは、人間が自ら(の思考)を抑圧する営みであったと言えましょう。そしてもし、このような成立過程を是とするならば、一神教においては厳格な信仰が求められることは必然的であり、それは極めて、権力と結びつきやすい性質を持つと言えます。
では、神話が語られていた時代、つまり一神教の成立よりも前の時代は、そのあたりどうだったのでしょう。神話には当然たくさんの神が出てきます。ですがこの神は、一神教の「神」とはその性質を全く異にするものでした。人間の思考を抑圧するのではなく、むしろ人間の思考の道具とも言うべき存在でした。風はなぜ吹くのか、川はなぜ氾濫するのか、収穫が少ないのはどういう訳か、そのような世界の諸問題を記述し、認識し、解釈するために、神という道具が用いられたのでした。その記述たるや極めて合理的なもので、自然科学の目が無い時代に、世界の摂理を理解しようとしていたことがうかがえます。何を以って合理的とするか、という問題ですが、神話のストーリーは因果律に満ちています。原因があって、結果がある。その結果が次の出来事の原因となる、というように。これはやや衒学的に言えば、「因果律の萌芽」とも、「パルメニデス以前の合理主義」とも言えましょう。ですから、神話を荒唐無稽だなどと笑うことは決してできないのです。神話が解決しようとした諸問題を「信仰」で括ってしまった一神教の方が、よっぽど荒唐無稽だと思います。神話というと宗教染みて聞こえますが、その実、神話はむしろ哲学に近い営みでしょう。中沢新一氏は、神話を「人類最古の哲学」というふうに言っています。
*この試論は、一瞬のうちに頭によぎった様々な考えを、どうにかこうにか整理したものであり、決して学術上の裏づけがあるわけではありません。間違いもあるでしょう。ご了承ください。*
自分の中にある、どうしてもそれから逃れられないもの、乗り越えられないものを、「神」というのではないでしょうか。
やや堅い言い方をすれば、自分の中の超越的な何か、といったところでしょうか。
神、といえば、イエス・キリストを想起する人が多いのではないかと思います。キリスト教、いわゆる一神教における神というものは、人間が考え出した概念ではないかと思うのです。つまり、自分の中にある超越的な何かを感じてしまったとき、意識してしまったとき、神が生まれたのではないでしょうか。それは同時に、人間が自らに限界を定めたということでもあると思います。ここで言う限界とは、思考の限界です。考えるべき問題(社会でどう生きるか、どうすれば食いっぱぐれないか等)と、考える必要のない問題(今で言う哲学が扱うような問題)を区別したのです。そして後者の、考える必要のない問題は、「信仰」ということで一括りにしてしまったというわけです。その結果、人間は国家をつくり、様々な制度をつくり、科学を発展させ、戦争もしました。いくらか言い方を変えて繰り返しますが、一神教の成立=神の発見とは、人間が自ら(の思考)を抑圧する営みであったと言えましょう。そしてもし、このような成立過程を是とするならば、一神教においては厳格な信仰が求められることは必然的であり、それは極めて、権力と結びつきやすい性質を持つと言えます。
では、神話が語られていた時代、つまり一神教の成立よりも前の時代は、そのあたりどうだったのでしょう。神話には当然たくさんの神が出てきます。ですがこの神は、一神教の「神」とはその性質を全く異にするものでした。人間の思考を抑圧するのではなく、むしろ人間の思考の道具とも言うべき存在でした。風はなぜ吹くのか、川はなぜ氾濫するのか、収穫が少ないのはどういう訳か、そのような世界の諸問題を記述し、認識し、解釈するために、神という道具が用いられたのでした。その記述たるや極めて合理的なもので、自然科学の目が無い時代に、世界の摂理を理解しようとしていたことがうかがえます。何を以って合理的とするか、という問題ですが、神話のストーリーは因果律に満ちています。原因があって、結果がある。その結果が次の出来事の原因となる、というように。これはやや衒学的に言えば、「因果律の萌芽」とも、「パルメニデス以前の合理主義」とも言えましょう。ですから、神話を荒唐無稽だなどと笑うことは決してできないのです。神話が解決しようとした諸問題を「信仰」で括ってしまった一神教の方が、よっぽど荒唐無稽だと思います。神話というと宗教染みて聞こえますが、その実、神話はむしろ哲学に近い営みでしょう。中沢新一氏は、神話を「人類最古の哲学」というふうに言っています。
*この試論は、一瞬のうちに頭によぎった様々な考えを、どうにかこうにか整理したものであり、決して学術上の裏づけがあるわけではありません。間違いもあるでしょう。ご了承ください。*
2010年6月9日水曜日
研究室宿泊研究日誌6/8~6/9「移動生活」
6月とはいえども、夜はとっても過ごしやすい。風がツイーって。
さて、考えたことども。。。
ノマドについて。というか移動式生活について。けっこう前から考えていたことなのだけれども、やがて地球上には人間が住める場所はなくなる、だろう。
都市は廃墟になり、やがては砂漠と化し、あるいは海に沈む。宇宙に上がらない限りは、その砂漠化、海面上昇の魔の手から、逃げながら生活せねばならないようになるだろう。つまりモンゴルの遊牧民、中東のベドウィンのように、場所を転々としながら暮らすのだ。
思えば、人類のはじまりも、移動から始まったのではなかったか。温かい場所や、マンモスのいる場所を求めて、人は歩き続け、それぞれの場所に落ち着いた。われわれ現代人にも、数百年後はそれと同じ状況が訪れるかもしれないのだ。やや詩的に言えば、原始の人類の旅は、文明の始まりへと向かったものであり、将来われわれに来るであろうこの移動生活は、文明の終わりへと帰っていくものであるかもしれない。まるで、すべてを焼き尽くす炎から逃れていくように。だが忘れてならないのは、その炎を灯したのは他でもない人類だということだ。
宇宙ということを考えると、地球上で逃げ回りながら暮らすことは、迂遠に聞こえるかもしれない。だが私としては、果たして人間が本当に宇宙で生活することができるようになるのかどうか、極めて懐疑的にならざるを得ない。すべての人類が宇宙に移住するとすれば、それは人間という生きものを、ゼロからまた作ろう、というほどの労力が必要となるだろう。
以上、私は危機論者ではないが、われわれの先にこのような危機的状況が待ち受けているということは―語弊を恐れずに言えば―ごく普通のこととして気に留めておくべきなのではないだろうか。
さて、考えたことども。。。
ノマドについて。というか移動式生活について。けっこう前から考えていたことなのだけれども、やがて地球上には人間が住める場所はなくなる、だろう。
都市は廃墟になり、やがては砂漠と化し、あるいは海に沈む。宇宙に上がらない限りは、その砂漠化、海面上昇の魔の手から、逃げながら生活せねばならないようになるだろう。つまりモンゴルの遊牧民、中東のベドウィンのように、場所を転々としながら暮らすのだ。
思えば、人類のはじまりも、移動から始まったのではなかったか。温かい場所や、マンモスのいる場所を求めて、人は歩き続け、それぞれの場所に落ち着いた。われわれ現代人にも、数百年後はそれと同じ状況が訪れるかもしれないのだ。やや詩的に言えば、原始の人類の旅は、文明の始まりへと向かったものであり、将来われわれに来るであろうこの移動生活は、文明の終わりへと帰っていくものであるかもしれない。まるで、すべてを焼き尽くす炎から逃れていくように。だが忘れてならないのは、その炎を灯したのは他でもない人類だということだ。
宇宙ということを考えると、地球上で逃げ回りながら暮らすことは、迂遠に聞こえるかもしれない。だが私としては、果たして人間が本当に宇宙で生活することができるようになるのかどうか、極めて懐疑的にならざるを得ない。すべての人類が宇宙に移住するとすれば、それは人間という生きものを、ゼロからまた作ろう、というほどの労力が必要となるだろう。
以上、私は危機論者ではないが、われわれの先にこのような危機的状況が待ち受けているということは―語弊を恐れずに言えば―ごく普通のこととして気に留めておくべきなのではないだろうか。
2010年6月8日火曜日
研究室宿泊研究日誌6/7
家に帰らないと日記つけれないので、研究室のPCから記録をつけることにした。
とりあえず、籐椅子に関する資料にがっつりあたろうと思っていた今週。まとまった資料の無さっぷりに少し腰くだけに。これってさ、僕の研究テーマ「映画を通して」以前に、籐椅子のまとまった研究をすることが必要なんじゃないか?
家具史のいろんな資料をあたってみても、籐椅子に関する記述の分量はかなり少ない。
どうしたものか・・・
籐椅子が、椅子の中で特異な位置を占めることは確かだ。椅子は洋式のものなのに、籐椅子に関してはなぜか、日本人の感性にあう、とか、日本人が親しみやすい、という捉え方がされている。あまりにも自然に。素材的に、畳敷きの日本間にしっくりくることは、いくぶん抽象的にではあっても一応納得できる。
でも、具体的に、どのように日本に入ってきたのか、またそれを受容する過程で、どんな人たちが目をつけ、国産化にこぎつけていったのか。籐はそもそもインドネシア原産の植物で、日本で使用するとなれば、輸入しなければならない。小泉和子氏は、「籐椅子は戦前の日本で最も広く家庭に浸透した椅子だ」と述べる。材料を輸入しなければならないにも関わらず、日本人はなぜそこまで籐にこだわったのだろう?いや、この際こだわったことは事実として認めて、どのようにこだわったかを明らかにしなければならないのではないだろうか。
・・・っと、勢いで頭の整理をしてしまった。
6月といえど、夜の風は心地よい。この研究室も、まだまだクーラー無しで頑張れそうだ。ただ虫が気になる。今もディスプレイに羽虫がくっついているし・・・。3時くらいになったら一度シャワーを浴びて、仮眠。そしてまた資料を漁って、バイトに行こう。
以上。
とりあえず、籐椅子に関する資料にがっつりあたろうと思っていた今週。まとまった資料の無さっぷりに少し腰くだけに。これってさ、僕の研究テーマ「映画を通して」以前に、籐椅子のまとまった研究をすることが必要なんじゃないか?
家具史のいろんな資料をあたってみても、籐椅子に関する記述の分量はかなり少ない。
どうしたものか・・・
籐椅子が、椅子の中で特異な位置を占めることは確かだ。椅子は洋式のものなのに、籐椅子に関してはなぜか、日本人の感性にあう、とか、日本人が親しみやすい、という捉え方がされている。あまりにも自然に。素材的に、畳敷きの日本間にしっくりくることは、いくぶん抽象的にではあっても一応納得できる。
でも、具体的に、どのように日本に入ってきたのか、またそれを受容する過程で、どんな人たちが目をつけ、国産化にこぎつけていったのか。籐はそもそもインドネシア原産の植物で、日本で使用するとなれば、輸入しなければならない。小泉和子氏は、「籐椅子は戦前の日本で最も広く家庭に浸透した椅子だ」と述べる。材料を輸入しなければならないにも関わらず、日本人はなぜそこまで籐にこだわったのだろう?いや、この際こだわったことは事実として認めて、どのようにこだわったかを明らかにしなければならないのではないだろうか。
・・・っと、勢いで頭の整理をしてしまった。
6月といえど、夜の風は心地よい。この研究室も、まだまだクーラー無しで頑張れそうだ。ただ虫が気になる。今もディスプレイに羽虫がくっついているし・・・。3時くらいになったら一度シャワーを浴びて、仮眠。そしてまた資料を漁って、バイトに行こう。
以上。
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