幕末の話をします。
幕末にはずいぶんと過激な人々が大勢いました。薩摩しかり長州しかり。水戸もまたしかり。そうそう、新選組も。動乱の時代にはヒーローと呼べる人がたくさん出てきておもしろいけれども、やっぱり現在もドラマや小説でヒーロー扱いされるのは、坂本竜馬、西郷隆盛、高杉晋作、近藤勇、などなど。いわゆる志士と呼ばれる人は数え切れないほどいたんだろうけど、やっぱり竜馬と晋作だけは格が違うと思います。この二人はもう何と言おうか、でかすぎる。奇跡です。僕からは距離が遠すぎて、何にも言えない気がします。でも偉そうに、ちょっとだけ語ってみます。
二人の共通点。それは、権勢への欲というものがまったくと言っていいほど無かったことです。竜馬が新政府の人事案を西郷に見せたとき、竜馬の名が入ってなかったことを不審に思った西郷が、その旨を尋ねると「世界の海援隊でもやりますかな」と竜馬が答えたというエピソードはあまりにも有名です。これは『竜馬がゆく』の中で司馬遼太郎さんも触れておられることですが、どうも竜馬は船と海が好きでしようがなかった。その自分の大好きなことができるような世の中を作りたいがために、薩長連合や大政奉還といった大仕事をやってしまった感がある、ということです。この点、竜馬はどこまでも純真無垢、天衣無縫な青年だったでしょう。
一方の晋作はどうでしょう。晋作は長州の上士階級の出身だったこともあり、藩内ではたびたび重要な役職についています。一時は政務役という、首相のような位置にあったこともありました。ですが晋作は、せっかく高官に就いたのに、どれも短期間でやめてしまいます。詳しいことは割愛しますが、時勢の成り行き上やめなければならなかったこともありますし、自分から役職を蹴ってしまったこともあります。奇兵隊創設の場合もそうで、作るだけ作ってしまって、具体的な管理運営はあっさりと山県狂介に一任してしまうのです。このようなときに晋作が抱く感慨というものは、一種の厭世観とでも言えましょうか。多少ナルシスティックな面もありますが、それは『方丈記』から続く、日本の知識人の代表的な姿勢でもあります。ただ晋作の一筋縄ではいかない面白さは、彼が「自分は誰よりも長州藩と毛利の殿様に忠誠の篤い臣だ」と自認していたことです。この点については、また機会を別にして論じてみたいと思います。
晋作は多くの漢詩を残しており、詩人としても優れていたことをうかがわせますが、その詩の内容は、例えば世を捨てた自分を笑い、どこか楽しんでいるような、多少キザっぽいものも多いように思います。この点、同じ「勤皇の志士」といえども、藤田東湖や武市瑞山、それに彼の師であった吉田松陰とはずいぶんと異なった人物でした。要は、イデオロギッシュでないという意味で、幕末的な性格が薄いのだと思います。
以上、まことに大雑把にではありますが、竜馬と晋作について比較を試みました。まとめたいと思います。幕末という一時期を真ん中に置くとすると、竜馬はそこよりも進んだ位置、つまり現代的(近代をも飛び越えているという意味において)であり、晋作はそこよりも戻った位置、つまり、より中世的・封建的であったと言う事ができるでしょう。しかし二人の仕事だけを見るならば、それは倒幕ということに尽きるのであり、さらに言うならば、日本の近代国家への発展を決定づけたのでした。
幕末の動乱は、ひとつの思想闘争だと言えるでしょう。誰もが尊王攘夷の思想に染まり、旧体制と対決していった中で、その混乱を収束に導いた二人が、極めて思想の匂いの薄い人物であったということは、とても興味深いことだと思います。
ここまで話して思い出しました。実は僕は、幕末期に開明的な眼を持っていた、一部の幕臣たちの話をしたかったのでした。尊王でも佐幕でもない、もうひとつの立場にあった彼らを非常に尊敬してもいます。ですが思いもよらぬ方向に話がそれてしまいました。その話はまた次回にでもしたいと思います。
では、終わります。